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海西雑記

海西雑記

 自慶応元年(1865年)一月一日 至六月十五日

元治二年乙丑元旦(慶応元年)

長門国河原の駅にあり、奇兵隊出張、福田良輔(侠平)、藤村太郎、小藤次郎助、眞田市太郎、山田豊助、及南園隊佐々木男也、武元多聞等と同じく年を越ゆ。もとより陣中の事なれば、節餅の式等絶へてなし。唯菜根にて酒を酌みたり。藤村太郎に大晦夜歌あり。

   七重八重囲みし仇の中なれば

       暮行く年の道やなからん

 皆々早朝は朝拝し、畢りて或は直衣などを取出し、叉は鎧なんぞを着て、酔ふては放吟

談笑、糠慨の余憤やる所なきありさまなり。

此日萩方軍中より楢崎市太郎、勝田仁太郎両人来り諸隊へ命令を伝ふ。

二 日 伊佐に行、昨夜より佐世八十郎(前原一誠)馬関より来り居り面談す此日槍隊にて大酔

三 日 萩野隊山縣三左衛門、三村傅蔵面会す

五 日 河原に行

六 日 雨天、此夕諸隊謀而粟屋帯刀の兵を絵堂を襲ひ、大に其軍を敗り之を走らす、是より先き諸隊追討と唱へ、萩府姦吏等国侯の命を矯め兵数千を出す、粟屋なる者千有余人を率いて絵堂に陣す。是に因て諸隊等大いに怒り、佐々木男也、天宮新太郎、福田良輔、藤村太郎、眞田市太郎等銃砲隊凡百人を率いて先鋒一番手となりて時山直八、三好軍太郎(後に陸軍中将子爵重臣)等百余人二番手となりて時山直八、三好軍太郎等相携へて、薄曙伊佐駅を発し河原にて兵を揃へ、直に進んで絵堂に至り、姦吏の罪名を挙げたる戦書を帯刀に送り、及び策を萩野隊に施して傍看せしむ。忽ち銃砲を発して之を襲ふ。其音に鯨波を交へ、恰も激雷の如し。天地震動す。敵対戦に及ばず兵器を捨て四方に散乱す。初砲の発する鶏鶴の刻より曙色に至る迄放発して不已盛と云ふ可し。

(時山直八は土佐にも赴きたる事あり、戯名漂流坊海月と称しへうきんなる様をなし、其容貌鼻高く目窪み西洋人に似たるより、友人と「西洋人」称し馬関の料理店に遊び女中達を驚かしたる珍談あり)

七 日 雨天、敵の捨つる所の器械を調べ、民を諭し防畧を成し酒をやり、士気を勇め後軍の至るを待つ。後軍山懸狂助(後有朋)等申刻に至る。此夜相倶に諸口を守る。

九 日 晴、予発太田長府に帰る。夜更け着す、直に馬関に行。翌朝着く。

十 日 晴、高杉山懸諸友に逢ふ、此夜伊勢屋に宿る。

十一日 長府に帰る。此夜叉馬関行。此日高杉等発行。後防長の勢を聞くに、十日、十一日、十二日屢戦あり、十四日、十六日大に戦ふ。諸隊皆勝ち、高杉晋作大に計策を施す。自是以後は双方砲留めの由也。

十二日 初鶏出馬。未明府に帰る、此日川上、土肥、吉村等伊佐方に行。

十四日 公卿様方御出帆。雨降り風亦不順。福浦に御一泊。

十五日 黒崎に御着座。供奉す。

十六日 申ノ時より博多に出る。翌朝著。

十七日 朝辰の刻甘木屋に著す。鷹取養巴(筑前の志士)を訪ふ。是処より伊丹(真一郎)今中(作兵衛)(共に筑前の志士、後刑死)に通ず。昼頃両人来る。事を談じ両人去る。

十八日 真木(外記)淵上(郁太郎)両人朝出足、赤間に帰る。此日赤間へ御移りと云。伊丹両人昼比返答有之。

十九日 初鶏発駕、昼比赤間に帰る。拝謁。

廿 日 加藤司書(筑前藩家老)帰る。小金丸(筑前の志士)来る。面談せり。

廿一日 長府迫田伊勢、磯谷謙蔵自博多帰る。自福岡法令が来る。此法令直様返す。

廿二日 長府両人等帰国。

廿三日 殿中大に論じ。福岡え使節被仰付。

廿四日 朝赤間出足、晩景博多石戸町縫屋三平方に宿す。付添足軽池神定七。

廿五日 小金面論。

廿六日 小金丸藤八、同姓兵次郎使者受として来る。命を伝ふ。

廿七日 夜早川(養敬)来る、有一策。此夜使を赤間に馳す。

廿八日 夜丑下武部(清岡半四郎後に公張)着す

廿九日 朝武部赤間に帰る。此夜鏡(真木外記)来る。昨夜吉井(幸輔)、大久保(利通)、税所(篤)来り著す。此日面会す。此夜使を赤間に出す。

卅 日 政府ヘ一書を出し君前を請ふ。小金丸等是に因て来る。叉前論を以て大に決答を促す。小金丸等去て又来る。聊か返答あり。此夜土方、武部博多に来る。大久保、吉井昨夜米藩に行。

 

二  月

二 日 昼後吉井の宿に行。

三 日 朝土方(楠左衛門、後久元)帰赤間。此日小金丸返答あり。

四 日 晩博多を出て赤間に帰る。

五 日 赤間を発し丑下小倉に着す。

六 日 乗船、雨天風浪不順、此港に泊す。

七 日 馬関に上り原田隼次、井上庄助及真木、淵上に会ふ。

八 日 白石氏(正一郎)に到る。此夜出帆、本山岬中関間にて夜明る。

九 日 カムロにて明く。

十 日 津和にて潮を候す。此夜冲トモに泊す。東風稍烈し。

十一日 西風徐々発す。初更下津井にて水塩を買ひ発す。諸津にて明る。西風漸く強し意外の天幸、舟子等大いに悦ぶ。

十二日 風大に順、未上浪華に著す。海軍生(坂本)の事を聞。

 著者曰く、是の日木戸、品川に書を送つて曰く

 サコシ浦より呈書仕候先以諸賢台愈御勇壮御座可被成奉恭賀候偖御地滞留仕候際は殊更御厚情相蒙難有奉存候此度は案外風順好く十日三田尻出帆今暁到着わづかに二昼夜にて相達し誠に無此上都合に御座候諸先生陸行の義御懇に被仰聞を不聞入若や順悪敷候ては実に申訳なき事と心配いたし居候先は余事無御座候へども御安慮の為一筆如此御座候尚取急ぎ御連称相認候段御海恕奉願上教恐惶謹言

  二月十二日     石川 清之 助

   木戸貫治様 品川弥次郎様

十三日 上著、是より先き八日馬関を出しより無雨。

十四日 晴、朝起、始て鶯声聞く。自是連日鳴ざる日なし。吉井在京の人より近情を聞き 来曰、過日関東より閣老両人阿部豊後守、松平伯耆守は歩兵隊三千を引卒し来る由、其含の幕意は大威を張り恐多も朝廷を要奉ランカ為尾老公、一橋公、會侯等を関東に下し諸藩の兵を国々に返し伯州歩兵を以暫く朝廷を守護奉り、遂に安対(安藤対島守)及酒井若州等ヲ以テ先年の如くせしめ、且諸侯參観を復古し妻子の国々に返しゝを復古せんとす。且叉毛利侯父子を関東に引出し五卿方は五藩より関東に出し候様致す為め大監察(小林甚六郎)等已に登せり尾老公の兵を大阪に止めしむ等の事を聞く、此日吉井内府公拝謁○此夜因邸に行、正人(松田道之)に逢ふ。水戸武田伊賀守(耕雲斎)一列之義に付一橋公、民部大夫(輔)君(徳川照武)出張の始末、加賀へ扱振之次第、田沼玄蕃正等の事、彦根若州の事、越前の事等右始末荒々聞え○橋本鉄楮の事を聞、金策(千屋)事を聞、本田方にて賊壹人切払ひ逃る。本田も亦逃る○正三公(正親町三條公)頗る純

 義○募三十萬金持来る○已に賄の入りし所ありと聞く未審。

 (田中顕助等長州より大阪に来り松屋町本田 大内蔵の家に潜伏せゐを新選組にて探知し、一月四日の夜突然大内蔵の家を襲ひ、大利鼎吉凶刄に倒れ田中等は大和に遁走す著者誌す)

十五日 晴、吉井、正三公拝謁叉越人に行くと云○廿番所に移る。松田来る。會決心東下の話あり○今日両閣老召に依て參内之筈の処阿部豊州病気に付御断申上延引之由。

十六日 雨、両人朝内田氏(薩摩京都留守居役 内田仲之助)を訪。大久保氏を訪。昼後関川 住谷(寅之允、水戸の士)を訪帰る。薄暮吉井来り談ず○夜二更関川帰る。

十七日 晴、吉井より猪肉一足を送る、直に焼て下物に当つ。午後松田に行く。會侯決心東下に付段々議論ありし由。肥後上田久兵衛殿下にて申上候事○幕府長州を乱るの策云々○御厨子所官人橋本摂津守伯耆閣老より長持三棹受取宮女尾張取次の事云々、直様閣老へ御返し相成候由云々○尾州老公狂を被病候云々○姫路廿四人斬る。楽公大老、水戸、河辺春次郎、備前津田彦左衛門、河辺源大夫六百年の廃典を被興近衛内府公大和に御越今朝御発駕

十八日 晴、朝内田氏を訪。巳下関川同道青木晟二郎(対州の士)を訪ふ。此処にて一酌一飯未上帰る。関川帰途より発熱。

十九日 曇天気風晩景より雪降終日不出。夜伊地知(正治)を訪、関川平臥、此日吉井、尾若井を訪ふ。明日若井国元に返さると云。

廿 日 稍晴、朝洛中満瓦雪、今朝吉井與談じ今日吉井、小松(帯刀)同道成瀬隼人(尾州家老)に行筈。此日松田氏を訪ふ不在。転て本国寺(水戸の宿陣)に至る。住谷七允(寅之助の子)、山口(徳之進、後の主猟頭男爵正定)、酒泉(彦太郎)加藤(有隣?)岩間(金平)面会日暮帰る相馬の人岡部少蔵に逢ふ。帰途対州邸青木氏を訪ふ不在。爰にて駕を命じ帰る。吉井来る居云今日長谷川(宗蔵)に至り談小松(帯刀)は成瀬に至り談ず大に都合好しと云○大目付永井主水正、小目付萬川鉡三郎等長討の事を報じて嘉奈川に至て止めて江戸に入れず。

廿一日 晴、此日大久保、吉井、一橋公に出る今夕吉井、税所同行、島原に遊ぶ。馴君花君阿北、辰次、阿光細書し難し(英雄の閑日月)○一公の話に長崎及五卿東武に出し候様之云々は幕意云々の事、此夜西楼に臥し雨声甚し翌日即晴。

二十二日 晴、早朝帰る。吉井尾州に行く。五藩之沙汰有之、長谷川宗蔵申渡す。此夜大久保宿に行。小松、伊地知、吉井、税所来り酒会談論之央也。二更入湯して帰る。

二十三日 吉田清右衛門(薩士)同道夜半浪華に着す。頗る好風日也。

二十四日 晴、亦好風日、駕籠にて心斎橋久太郎町等を経書舗に廻り河新にて外史杜甫詩醇等の書を買ひ、転て難波に至り兎角亭にて一酌、住吉営中へ人を遣り一書を投ぜんとす、不被行、未下松舗亭帰る。

二十五日 晴。早朝内田伸之助著、阪報日閣老伯州、豊州去る二十二日参内関白殿二人に被問しは此度何故上京せしぞ、答曰朝廷えの御用にあらず一橋中納言えの用向にて罷在り候ろ、殿下曰其次第を陳ぜよ、閣老窮して白する事を欲せず、殿下強く詰問す。終に其條を白し曰く、一橋東下の事に候と、殿下大に怒り叱す。二人抵頭罪を講ず。殿下且二人に命じて日く、五卿の事長崎の事何故私に大事を決し暴令を出せしや、決して斯様の暴令を出すべからず慎て朝議を待て。又曰諸侯参府併妻子等の事甚不届也、決て不相成。又曰横浜鎖港の事何故因循するか。閣老曰薩長追々戦争に及びしに悉く不利此勢にては被行不申故に未果也と云々、殿下曰薩長は兎もあれ鎖港の義は将に将軍自ら御受致し其上松平大和守酒井雅楽頭等奏曰、此度の事不行れば両人自殺致ても空くは打過申間敷と、今聞雅楽頭元老と成ると、汝等東帰雅楽頭に告げ速に其由を奏せよ。且問ふ「此節幕府の処置甚不宜、幕中決を取るものは誰ぞ」と巌しく詰らる。伯州窮して曰、某にて候と、於是殿下益す々怒り汝罪人、汝の首を斬るとも猶不足也、然に今汝の首を斬るも無用也、此比外夷摂海に来るの説あり、速に汝率る所の兵を以て大阪に下り辺防を成せ。豊州義は池に東下し事の次第を幕府に告げよと被仰聞、二人再拝して退き昨二十四夜伯州著阪、豊州は直様東下の由也。右は大畧にて具に言へば長し今其要を記す。

二十六日 晴、早朝内田、町田、加藤、吉田四氏同船兵庫に下り蒸汽船に乗込、未下上陸楠公廟に拝す。薄暮船に帰る。

二十七日 晴、卯下此港を発し暮に備洋田島海に泊す。予始て洋流船に乗り駿速なる事大に感心。

二十八日 雨卯刻発し松山領の内津波停泊。此日吉田氏御手洗に上陸、此より岩国行之由也此日舟路三十里に不及、風悪く且大霧方向を不分、故に此処に泊す。

二十九日 無雨、逆風甚強し。激潮船上に打込み終日蓬窓を鎖せり。此夕豊州狐崎に泊す。

三  月

朔 日  晴、暴風に向ひ馬関玄海之暴潮を恐れ此処を不出。

二 日 晴、此日風浪稍穏、蒸気釜傷み造作し停泊依之。加藤、町田両氏と馬関に遊び夜中船に帰る。馬関にて粟屋主税に逢ふ。

三 日 上巳也。晴好風日、卯下狐崎を発し、未下博多に著し、初更宰府に著す。直様拝謁

四 日 晴、内田等三人来り泉屋逢、此に別る

五 日 巳比より雨降る。辰上馬上博多に至り甘木屋に恩ず、内田等尚在。多田(対馬の士多田壮蔵、博多附近に対州の領分あり)及筑紫(衛、名は義門、筑前の士、後溺死)等発して東行○終夜雨不止夜明て止む。

六 日 晴、朝馬を内田にかし徒にて帰る。此夜多田来り泉屋に至る。

七 日 雨、多田、池田等の馳走にあふ。但多田の為説得之事あり。夜拝謁條公云々此日俄多田博多に行。

八 日 晴、朝御馬場拝見、夫より御庭にて剱術、此夜多田来る。

九 日 晴、天好風日、此日対人四人及筑人薩人等と泉屋にて出会。対人等久留米に出立O此夜、筑薩肥後酒を此別れに飲む。(是日黒田嘉右衛門に書を送り面会を求む)

十 日 晴、午後五卿様武戴湯町、及武蔵寺に御成。

十一日 晴、此日多田、北畠面会。月形(洗蔵筑前の士、刑死)帰博O東山に登り酒を飲む此夜殿居。

 (以下廿四日に至る日記を欠ぐ)

二十五日 晴、天神祭日也賓す。

二十六日 晴、博多に至る訪黒田氏(嘉右衛門)寓亭。夜伊丹氏族亭に来る。

廿七日 晴、朝黒田を訪ひ未中帰府。

廿八日 此日辰下より雨降る。卯下発程青柳に宿す。此度長州家え使者として森寺大和守 (三條公諸太夫)蒙予亦被指副、発行。

廿九日 晴、卯上発程、赤間昼飯の上未下黒崎に著す。暮方乗船亥下出帆寅上馬関に著す。

 コヤノヒ駅の西流瀬川あり。風帆上下す、石灰及薪穀類をアシヤに出すと云。往還道より下流四里と云。

四  月

朔 日 晴、阿彌陀寺村屋清蔵方に著す。泉十郎、熊野九郎来訪。暫時の談にて帰る。談中云東行俊輔入海云々。

招魂場に行く、又白石翁(正一郎)を訪ひ酒を酌む。

二 日 晴、長府に至る、当藩殿中指岡之筋有之使者受として粟屋族、井上藤蔵両人旅宿に来る。粟屋氏へ馬之事相談に及ぶ。夜熊野九郎来る。

三 日 雨、馬二匹供用す。粟屋、井上五ッ時来。金三百匹宛送らる。予子細有て先発萩行之覚悟にて午前吉田に著す。森寺氏清末之使者相勤、予吉田に著し山縣狂助に面会し、故有て此処に宿し森寺氏を待つ。森寺氏酉下著

四 日 昼比迄稍雨、午後晴、申上小郡に著す小郡関門物頭林秀之進、福原内蔵允両人え通行之事懸合に及ぶ。翌朝六ッ時差支無之段答来る。

五 日 晴、卯下発程午上山口に達す。町奉行井上五郎三郎(聞多の兄)来訪。

六 日 晴。辰下波多野金吾(後廣沢兵助)来訪巳中長門守殿の御旅館に出拝謁具に事情を陳す。白銀三枚被放下。晩景御酒被下。波多野、山懸、木梨彦右衛門、井上五郎三郎等来る。

七 日 晴、鴻城軍に行く。午後より赤妻社参詣す。

八 日 晴、村田同行山懸に至る。

九 日 晴、発山口舟木宿。

十 日 晴、達馬関、清末武中(貫太郎)、渡辺面会。長府熊野両人面会。

十一日 晴、馬関滞留井上聞多、伊藤俊助面会。白石にて小藤の金十五両受取。

十二日 晴、午晴、黒崎に達す。此日古屋の瀬に宿す村井逸馬面会。

十三日 午時より雨降り鶏鳴発途、八ッ半博多に達す。多田壮蔵、黒田嘉右衛門、伊丹(真 八郎)等に逢ふ。

十四日 晴、午時帰府、此日満盛院へ御成被遊。

十五日 晴。朝御馬場、此日清末藩使者武中貫太郎来着。

十六日 晴、使者参殿。

十七日 晴。御馬場、西様(西三條季知)御入湯

十八日 晴、此夜黒田嘉右衛門自博多著。

十九日 雨、武中別杯。夜黒田面談、大野某自上国著。赤松淵上之事云々、此日筑紫早川(養敬)等帰着と云。

二十日 雨、大野拝謁備行の策有り。安田某自福岡来。 対橘言志歌題

  回首憂懐百夢残、橘花方発午窓開。

夙飲辛苦古人節、千里能求香果還。

 (二十一日より二十六日迄闕く)

二十七日 出足。

二十八日 黒崎著。

二十九日 赤間関に渡著。

三十日 桂小五郎帰関潜伏の由来り直様面会。

五  月

朔 日 出帆。

 (此間日記闕く)

十五日 著京。

 (此間亦闕く)

  (是月十六日、中岡京師に在り幕府長防再討の令を発するを聞き大に之を憂へ土方楠左衛門と謀る、薩長二藩をして同志協力せしめざれぱ天下の事復奈何ともすべからざるを以て乃ち議して曰く、薩長和解未だ端緒に過ぎず、真に調停を為さゞるべからず、二人相與に大久保一蔵、吉井幸輔等に謀る、'皆之を可とす、是に於て楠左衛門は長州に行  て桂小五耶等に説き中岡は薩摩に下り西郷吉之助等を勤め之を馬関に会ゼしめんとするなり)

廿四日 発京伏見一泊。

廿五日 淀川を下る。橋本より八幡参詣。申下浪華に着す。

二十六日 二十七日滞阪。

甘八日 朝辰下小蝶丸安治川口を発す。薄暮多度津に泊す。

廿九日 卯下発洋、雲雨に因て御手洗に泊す

閏 五 月

朔 日 滞泊。

二 日 小雨卯小発港、雨止東風滞帆船甚急酉中豊前田の浦に泊す。

三 日 呼子泊す。此日舟路四十二里赤間関より筑前間の島二十一里、自之玄海島七里、自之姫島七里、自之呼子七里也。

四 日 朝六半呼子出船、七ッ比長崎著港。

五 日 晴、午時長崎を発し薄暮長島洋を通る

六 日 小雨、海門嶽下を乗り、午時鹿見島に至る。

 (薩摩滞在中の日記缺ぐ)

十五日 乗船。

十六日 出帆、日州兎の浦に泊す。

十七日 同所に滞泊。

十八日 豊後佐賀関泊、自之上陸大陸屋に宿す。

 (中岡、西郷と共に此所迄来り、西郷は俄かに上洛する事となり、中岡単身馬関に向ふ)

翌十九日 滞留。

翌廿日 漁船を借り下関に渡らんと、辰中此港を発す。

二十一日 夜下関、坂本(龍馬)桂(小五郎)安喜(盛衛、後に黒岩直方)に逢ふ、馬関滞留中和蘭コンシュル応接の事あり。

二十九日 夜発舟。

六  月(十三日迄缺ぐ)

十四日 備前西大寺に宿す。

十五日 藤井駅に宿す。

 周旋客、津田彦左衛門、伊木大夫臣小松原源治面会。

 (明年十一月十五日に至る日記缺く)

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